Site Web cahier ── 書評・エッセー・研究レヴュー

年2回発行されるcahier所収の書評とワークショップ報告に加えて、
フランス語・フランス文学に関するエッセーや研究レヴューを随時更新していきます。

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その他の研究レビュー

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書評コーナー

2015年11月11日 21時17分 [admin]

cahier電子版のための書評執筆のお願い

研究情報委員会では、年二回刊行の学会広報誌cahierに書評を掲載してまいりましたが、今後、このcahierの書評に加えて、学会HP上のcahier 電子版(Site Web cahier)に「書評コーナー」を設け、以下の要領で随時募集した書評をよりタイムリーに電子版に掲載していくことにいたしました。奮ってご執筆いただければ幸いです。

 書評対象:原則として、過去1年間に刊行され、その内容から広く紹介するに相応しい学会員による著作を対象とする。翻訳なども含み、日本で刊行された著作には限らない。フランス文化、映画などに関する著作も排除しない。

 学会員による他薦あるいは自薦(自薦の書評も受け付けます)

 字数:(著書名・書名・出版社名・発行年等を除いて)800字以内

 締め切り:随時受付

 宛先:研究情報委員会(cahier_sjllf[at]yahoo.co.jp([at]を@に代えてください)) までメールでお送りください。

 掲載の適否は委員会で判断させていただきます。なお、これらの書評のうち広報誌cahierにも掲載するに相応しいと委員会で判断したものについては、他薦の場合は執筆者にcahier用に2000字程度に手直しをお願いすることがあります。また、自薦の場合は委員会で執筆者を選定して依頼いたします。

過去の書評・エッセー・研究レヴュー

2005年1月1日 00時00分 [WEB担当]

cahier 00, juillet 2007

書評
 

バタイユ―魅惑する思想 (哲学の現代を読む 1)

作者: 酒井健
出版社/メーカー: 白水社
発売日: 2005/01
メディア: 単行本
購入: 2人 クリック: 16回 


酒井健『バタイユ 魅惑する思想』
評者:神田浩一

バタイユ研究の第一人者による最良の入門書
 酒井健氏は、日本人として初めてバタイユに関する博士論文をフランスに提出したバタイユ研究の第一人者である。本書は、その著者のバタイユに関する4冊目の著作である。白水社の月刊誌『ふらんす』に2001年5月号から2002年3月号まで掲載された「バタイユを読む」の解説部分と同誌2003年4月号の「バタイユ」というテクストをもとにしているが、著作にまとめられる際に大幅な改稿が加えられた。バタイユの12のテクストの解説とそこに表現された思想の意義が説明され、また、「バタイユに魅せられた人々」という題で、バタイユにゆかりある6人の人物の紹介が書き下ろされ挿入されている。

前書きで酒井氏は著作の狙いを次のように述べている。「バタイユの思想世界をめぐる自然風の廻遊式庭園に仕上げてみたかった。」「西洋にも日本にもある自然風庭園の面白さ、つまりどこに通じているのか、何が見えてくるのか分からない散策路の楽しみが少しでも本書から出ていれば幸いである。」(4頁)

 したがって、本書は、厳密な意味での研究書ではなく、また、体系的、網羅的に説明された入門書でもない。むしろ、バタイユを題材にしたエッセイであり、バタイユ思想の魅惑を余すことなく語るものである。

 酒井氏の魅力は、「ねばり強い実証研究」とそれを語る際の「熱い語り口」だ。多くの場合、この2つの要素は相反しがちであるが、酒井氏のテクストではこの2つの傾向がうまく同居している。

 例えば、「古文書学校時代のジョルジュ・バタイユ」という論文を書いたときには、バタイユが卒論執筆時に参照した大著に目を通すことで、バタイユの読書体験を追体験している。また、博士論文においても、一見バタイユ思想と無関係な、バタイユと同時代の物理学の動向までも綿密に渉猟している。

 「熱い語り口」は、酒井氏の資質の問題であると同時に、彼の研究対象であるバタイユにも由来する。バタイユは、ニーチェについて語る際に、哲学的に対象化して論じるよりは、むしろニーチェという希有な存在を生きるべきだと考えていた。同様に、バタイユを対象化して論じるよりは、バタイユとともに生きることが重要になる。

 エッセイというスタイルは、バタイユの教えに少しでも近づきたいとい願いを表現した形式であろう。そして、研究書でもしばしば見受けられる酒井氏のバタイユへの強い思いは、エッセイとスタイルで解放され、次のような詩的な言葉に結晶する。「『私は哲学者ではなく聖人なのだ、おそらくは狂人なのだ』と叫んだバタイユの作品群は、肉体の狂的な生々しさを放って、今も思想史の極北で輝いている。読者との聖なるコミュニケーションを待ち望む熱き星雲として、である。」(209頁)

 このような力強い語り口とバタイユへの熱い思いが、バタイユに魅了される新しい世代の読者の創生に寄与しているのだろう。

 しかし、その切迫さがいささか性急過ぎる場合には、読者は文章に入れ込めずに当惑することになる。本書でも、「イデー」と「実証」という単純な二項対立を措定し、「イデー」の重要性を述べる一節に、特にその弊害が見られる。その二項対立の存立そのものを疑う視点が欠如しているためである。酒井氏の特徴が、イデーを語る熱い語り口と緻密な実証であることを考えれば、酒井氏は自らの議論を自分で論破していることになるだろう。

 ただし、バタイユのテクストに寄り添ってなされる本書の解説は、多くの場合、説得的かつ妥当なものであり、たとえ文学的な美文に流れ、議論が多少なりとも曖昧になることがあったとしても、解釈の本質を外すことはない。

 その理由として考えられるのが、本書の成立事情である。雑誌掲載時には、仏文解釈の教材としてバタイユのテクストが用いられ、思想の解説はむしろ補足的なものだった。テクストの忠実な読みから始まった解説というスタイルが、悪しき抽象性へ向かう力を抑制し、議論の道筋に良い意味での制限を与え、説得的なものにしているだけでなく、また、酒井氏の熱い語り口に適度な抑制をもたらすことで、かえって彼のバタイユへの熱い思いを効果的に表現することに寄与している。その意味では、本書は、今まで酒井氏が記したバタイユに関する著作の中で最良のものであり、バタイユ思想に触れたいと思っている人はまず手に取って見る価値のある著書であると言えるだろう。